水哉寮のこと、工藤さんのこと。

実は今日、気仙沼に行っているはずだったのだが、カゼをこじらせてしまった。

いま被災地では人手が不足している。義援金や物資もあって助かるのはもちろんだけれど、現地でのニーズは日々変化していて、いつ届くかわからないお金よりも人海戦術による町の復旧が焦眉の急だと思う。だから適当な時間をみつけては、出来るだけ足を運ぶことにしている。「お悔やみ申し上げます」「がんばろう日本」なんてコピーは、いまや企業の免罪符のようになってしまった。


(報道されない現場ほど、多くの事実を物語っている)




そんなことを考えていたら、自分が大学生だったころのことを思い出した。



当時、貧乏だったぼくは、そりゃもう頑張って勉強した。それでなんとか国立大には合格したものの、通うには遠く、下宿するには金もない。ハテどうしたものかと悩んだ挙句、大学の学生寮に入ることにした。

そこは「水哉寮」という名前の学生寮で、びっくりするくらい年季の入った建物だった。壁によりかかると服は真っ白くなる。夏になると小豆くらいの虫が、どこからともなくワサワサわいてくる。部屋の窓からタヌキが見える。電話が一台しかなくて、着電の呼び出しが鳴っても、走って1分くらいかかる。風呂トイレ調理場に洗濯機は共同使用、2段ベッドで1部屋4人。でも家賃がとにかく安くて、八千円ほどだった。月額ではなくて、年間で八千円。



そこで管理人をしていたのが、工藤さんってオッチャンだった。


(数年前に綺麗に建て直された水哉寮。家賃も上がり、往年の面影はなくなった)



工藤さんはもの凄く背が低くて、150cmくらいしかなかったんじゃあないか。いつも薄汚れた感じの作業着にツバ付きの帽子をかぶった、日に焼けた、とても色黒な人だった。大きな眼鏡でニコニコしながら学生を送りだしていた。ゴミを集めたり、電話番をしたり、中庭を手入れしたり、自転車のパンクも直してくれたりした。スーパー管理人。ザ・働き者。そんなコピーがぴったりはまる、なんでもできる人。作業の合間に雑談をすることもあった。ニカッと笑ってタバコをよく吸う人だった。



ウン十年と大学生を見守ってきた工藤さんは、学生からも慕われていたはずだ。少なくともぼくは好きだった。ルーズを形にしたような大学生ばかりを毎日相手にしていたのに、怒りもしなかった。サービス業だから怒るなんてとんでもない、なんて言うのではなく、我慢の人だったのだと思う。小柄なわりにランニング姿になると筋骨隆々、ただでさえ多い顔中のシワも笑顔でくしゃくしゃになるのはしょっちゅうだったから。



工藤さんは謎の多い人だった。たしか独身だったか。でもひょっとしたら家族はいたのかもしれない。でもよくわからない。あまり自分のことを話す人ではなかった。



それでも、若い頃は遠洋漁業でほとんど日本にいなかった、というような話を聞いたことがある。漁業ではなくタンカーだったかもしれない。他にもいろいろな話をしたと思うが、よく覚えていない。苦労ばかりではあったけれど、人生の奥深さを大学生にそっと教えてくれるような、そんな話だったのではないか。そのダミ声から、タバコの脂で黄ばんだ歯、赤い帽子まではっきり思い出せる、そんな人だったんだもの。



(年度末になると、水哉寮に植わった紅梅と白梅が入学者を迎える)



3年生くらいの頃だったと思う。工藤さんが管理人を辞めることになった。定年退職だった。
当時、副寮長を務めていたぼくは、委員会の席で「なにかできないか」と発案した。みんな、めんどくさそうな感じで、なかなか意見がでなかった。しばらくして誰かが、餞別にプレゼントをしよう、と言った。するとみんな賛成した。役に立つものか好きなものがいいだろう、お酒が好きだったから一升瓶のセットはどうだろう、となった。定年祝いってことにもなるし、まさにグッドチョイス。それしかないような気がした。



それから1ヵ月後のことである。
定期総会の席上で、ある学生が「工藤さんが退職して」と発言した。

「先日、管理人の工藤さんが定年退職して、一応、水哉寮からは餞別としてお酒と寸志が贈られたそうですが、ちょっとぼくら何人かで工藤さん誘って飲みにいったんですね。個人的にですけど。そこで工藤さんはこんなこと言ってたんです。せっかく頂いたけれどモノだけというのは寂しかった、あれだけ学生のために長いこと働いてきたのにこれなのか、こうやって食事に誘ってくれることが本当に嬉しい、と。工藤さんはゴミ出しや雑用など、ずっと何十年もやってくれてました。どういう気持ちだったのか考えてみてください。ぼくが言いたいのはそれだけです」



感謝の気持ちをあらわすのに、いろいろな形があっていいと思う。
けれど、その中心となる相手の目線からブレてはいけない。

たぶん委員会での僕らは、「感謝の気持ちを表すためにプレゼントする」というよりも、「プレゼントをすれば感謝の気持ちを表すことができる」という考えにシフトしてしまったのだ。



(ボランティアの手が回らず、放置されたままの家屋)



卒業してから工藤さんに会うことはもうない。


どうか今も健在であってほしいと思う。

相変わらず、ぷかぷかとタバコを吹かしていてほしいと思う。

そして時には、あのニカッとした笑顔を、どこかで見せてくれていればいいのだが。




今から十年以上も昔の話である。

今もだれかが、やっている。 〜被災地支援ボランティア

沢木耕太郎の『彼らの流儀』という本に「鉄塔を登る男」という話があります。
東京タワーの一番てっぺんの、チカチカ点滅している赤電球。あれを取り替えている男の話。

——あれは私たちが取り替えるんです。航空障害灯といって飛行機などがぶつからないように付けてあるんですけど、構造的には赤い強化ガラスの中に五百ワットの電球が二つ入っているだけのものです。その電球をナップザックに詰めて、てっぺんまで登っていって取り替えます。でも、切れたら取り替えると言うんではないんです。あそこには、各民放とNHKのアンテナがついています。そこに万が一にもトラブルが発生したら大変なことになってしまいます。だから、一年に一度、アンテナの点検をする際に取り替えてしまうんです。

東京タワーには、百五十メートルのところに大展望台、二百五十メートルのところに特別展望台があって、そこまではエレベーターで登れることになっています。しかし、そこから先は自分の手と足で登っていくしかありません。しばらくは階段がついていますが、やがてすぐに剥き出しの垂直のハシゴを登っていかなくてはならなくなります。そして、NHKのアンテナがある三百十三メートルから上は、そのハシゴすらなくなってしまうんです。航空障害灯のある三百三十三メートルのところまで行くには、三角定規のような形に折り曲げられたパイプ状のアンテナをよじ登っていくことになります。もちろん、命綱などつけません。そんなものをつけたら邪魔で登れないからです。

といっても、私たちはトビ職人でもなければ、特別な訓練を施された専門の要員でもありません。放送用のアンテナのメンテナンスを 担当している古河電工の普通の社員にすぎないんです。実際、私にしたところで、鉄塔に登るつもりでこの会社に入ったわけではありません。配属されたところがたまたまアンテナ部門だったというにすぎないんです。

沢木耕太郎「鉄塔を登る男」




(震災で地上アナログアンテナが曲がった東京タワーの修復作業の様子)




東日本大震災の発生から3ヵ月が過ぎようとしています。
みなさんの生活に変化はありましたか?


ねこまきは、東北道が開通した3月末から継続して、震災ボランティアに取り組んでいます。




(がれきの撤去や泥かき、側溝の復旧作業など)



(ヘドロを詰めた土嚢袋。膨大な量)



日本を支えているのは、一部の偉い人でも富める人でもない。賢い人でも凄い人でもない。

かっこいいとか新しいとか素晴らしいとか、きっとあんまり関係ない。

なんでもない無名のひとたちが、ずっとこの国を支え続けてきたのだと思います。



(宮城県石巻市住吉地区 4月初旬)


(同地区 5月初旬)


(同地区 6月初旬)


NPOメンバーの話では、GW明け〜台風以降と一般ボランティアが減り続けており、いま現地では、深刻なボランティア不足(人手不足)に悩まされているとのこと。
 
復旧し始めたのは、ほんの一部。まだまだボランティアは必要です。ぜひ力を貸してください。

(沿岸部など、ほとんど手の届かない地域も)


>>はじめての方は、各自治体・NPOのボランティアバスを利用するのが便利です。